ねこの日々 - ブログ版

趣味のフルートのことや愛猫のことを、たま〜に呟きます。

ゴロゴロしたい

カレンダー通りの仕事なので、今週は10日から仕事開始。

先週土曜日からの3連休、それなりに用事はあったけれど、のんびり出来る時間は猫とゴロゴロしつつ、時には眠っていたので、平日と比べると睡眠は随分と多く取れたと思う。病院から処方された薬と合わせて、風邪の方もかなり良くなってきた。

それでもまだ、いくらでも眠れる気がする。今日も明日も明後日も、気の向くままとに猫と一緒にゴロゴロしたいなあ…。

私が寝ると、猫たちも一緒にゴロゴロして眠ります。私が動き始めると一緒に当てもなく動き始めます。猫って面白い。

はてなダイアリーから移行しました

仕事では変わらずパソコンを使いますが、プライベートでのインターネットアクセスの殆どはスマホから、という環境になって何年か経ちました。

いくつかのSNSなどのサービスを利用していますが、其々に個人的な都合があります。ここはパブリックながら、リアル知人でここを知る人は殆どいないだろうという場所。そういう点での気楽さがあり、気持ち的に、ここでしか書けないことがあります。

 

これまで頑なに『はてなダイアリー』を利用してきましたが、スマホからダイアリーへアクセスするのが少し面倒に感じてきたこと、もう少しはてなに書きたいと思ったことから、年も明けたし心機一転というほどではありませんが、こちらへ移ることにしました。

 

今はテストを兼ねてスマホから湯船に浸かって書いています。便利〜♪

暫くはデザイン変更など、ちょっとした変更をするかもしれません。もしお騒がせになってしまったらごめんなさい。

本年もよろしくお願いいたします

フルートは細々と続けています。
フルート教室の発表会が毎年1月にあり、あと数週間で本番です。

毎年、発表会後の翌2月からの1年間を単位に、自分なりに今年はどうしようかを考え、それを師匠に言ったり言わなかったりはしますが、今タームは「今よりもより響く音にしたい、深みのある音にしたい」と考えていました。師匠には「音を何とかしたいんですよねー」と何かの折に言ったら、レッスンでは、音の種類に関する指摘が増えました。

まだまだ思うようにはできていませんし、演奏し続けている間ずっと付きまとう課題でもありますが、その区切りとして、発表会ではサン=サーンスの「ロマンス Op.37」を演奏することになりました。発表会の曲をどうするかの話で、師匠があっさりと提案してきて、私としてはいつか演奏してみたい曲だったので異存がある筈もなく、すんなりと決まりました。

サン=サーンスは底意地悪く皮肉屋な面があるので、この曲もタイトル通りに受け取って良いものかどうか悩ましい上に、そもそも「ロマンスってなあに?」な状態で、どのように捉えたものかを悩んでいます。

こういう時、YouTubeって助かります。様々な演奏を良くも悪くも参考にして、考える材料になります。色々と聴いた中で私が好きな演奏はこちら(↓)です。音楽の作り方は私がやろうとするのと異なるものもありますが、音の処理の仕方などは目指しているものに近いものが、他の方の演奏と比べて格段に多いです。

Camile Saint-Saens. Romanze Op.37


年末年始は楽器を持てないのがつらいところですし、平日楽器を吹くことも難しいのは毎年のことでもあるので、これからどのようにできる限り仕上げて行こうかを考えているところです。まずは、イメージを固めてしまわないと。


2015年、2016年の発表会では、モーツァルトのフルート協奏曲第1番をやりました。2015年に1楽章、2016年に2と3楽章を。モーツァルト、好きですが、難しい。音への気遣いは半端ない細やかさが(私にとっては)必要でしたが、その大変さは意外に聴いている人に分かってもらえないんですよね。私がやろうとしていることがよく分かったよと言ってくれたのは、私よりも上手に吹く人でした。きっと彼女もどこかで同じ道を通ったんだろうな。

新入り

猫とまた一緒に暮らしたいと思えるようになったのが春頃。オスとメスがお世話になった動物病院の先生に、もし里親を探す猫がいれば声を掛けて欲しいとお願いした。

5月中旬に連絡がきた。隣の市で保護されたという姉妹ネコ。まだまだ小さくて、こまめにミルクを与えないといけない月齢で、共働きの我が家での世話はまだ無理だったので、自分のことは自分でできるようになってから受け取ることに。見に行った時は、引きはがすの大変な位に身体を絡み合わせて眠っていて、とにかく小さかった。私の片手で2匹を持てるような大きさ。

そうして我が家にやってきたのが6月中旬のある土曜日の午前中。

一匹はキジトラ、もう一匹はキジトラの模様のグレーベースの色合いの猫。どちらもまだ体重が700g弱、細身。グレーの方がなんだかウナギのようだったので「うな」、キジトラの方は模様がはっきり出ていてうり坊のようだったので「うり」と名付けた。

キャリーケースの中から中々出てこなかったので、リビングの隣の部屋にキャリーやトイレや餌を置いて放っておいた。その部屋の中でうろうろし始めても、私達が見に行くとキャリーか部屋の隅などの簡単に手が届かない場所へ入ってしまう。時々声をかけたり撫でたりはしたが、やりたいようにさせておいた。

翌日は私達がいるリビングまで探検にくるようになったけれど、人間からは距離を取っている。それでも少しずつ距離が縮まってきたような気がする。追いかけっこし、探検してはかごに入って眠りを数時間スパンで繰り返す。そのかごの傍に置いていたトイレを少しずつ離して行き、最終的には所定の位置になったけれど問題なくたどりついた。リビングと廊下を区切るドアには猫ドアを付けているのだが、特に教えなくても猫ドアを通ってくれたことに感激。

それから一週間。リビングでくつろぐ私やダンナの上に、当たり前の顔で乗って、撫でろの要求も。ねこともさんの集まりに連れて行ったけれど、訪問先で好き勝手に遊んでいるし、誰かが遊んでくれるのにも狂喜乱舞する様子を見たねこともさん達に、人見知りしないことを驚かれた。

日に日にできることが増える様子を見るのは面白かった。昨日辿り着けなかった場所に到着して物凄く満足そうな表情をしたり、その様子を見たもう一匹も同じようにチャレンジして失敗してしょげていたり。失敗続きがちょっと気の毒だったから、その場所に乗せてあげたら嬉しそうに辺りを見渡したり。その翌日には自力で辿り着いていたけど。

運動能力が高まり、身体も大きくなって、今では体重は既に3kgを超えた。追いかけっこやいたずらの類はパワーが増して、こちらの被害もそれなりに大きなものになってきて、叱ることも増えたけど、その被害に笑ってしまうことも多い。

さて、この子たちとはどんな日々になるのかしら。

そしてメスもいなくなった

2011年に亡くなったオスの兄弟猫であるメスが亡くなって1年以上が過ぎた。長らく軽く咳をしていたのだけれど、あるときから呼吸が苦しそうになり病院へ。原因不明だけれど肺の機能が落ちていて、本来であればレントゲン写真では肺の辺りは真っ黒で写るはずのものが、かなり広い範囲で白っぽく写っていた。

その日から何種類かの抗生剤などを服薬。亡くなる一月前からは食べ物も水も徐々に口にしなくなってしまったので毎日点滴に通った。好きそうなものや口にしてくれそうなものを探して、マグロを与えてみたり、鰹節でとっただしを鼻先に出してみたりと、あれこれ試していた。においをかいだり、舐めてみたり、少し食べてみたりすることもあったけれど、必要量からみればゼロに等しい量だった。


最後の2週間ほどは基本的には寝たきりで、それでもフラフラしながらトイレに行こうとするので、すぐそばにトイレを置いた。寒くないように座布団の上に横たえてフリースをかけて、そんな状態の猫を置いて出勤する毎日は辛かった。当時抱えていた案件は種々の事情から毎晩の帰宅時間が遅くなってしまうものだったので、点滴のために毎日通院が必要になった時はメンバーに事情を話して病院に間に合うように職場を抜け出し、帰宅して猫を連れて病院へ行き、点滴を終えたらその逆路を辿る日々だった。動物病院の先生方にはたくさんの配慮を頂いた。


ぐったりして余り動かなくなって、声をかけてもうつろに目が反応しているように見えるのがせいぜいではあったが、私や夫が近くにいると安心しているように見えたので、自宅にいる時はできる限り気配を感じさせるようにした。毎晩リビングで川の字になって寝た。


2014年9月26日に日付が変わった頃から1時間置きに声を上げ、また静かに眠るを繰り返した。そして午前4時36分に声を上げた後、すっと呼吸が止まった。嘘のようだった。受け入れ難く、しかしどこかホッとして、泣き笑いした。もし私が蘇生技術を持っていたとしても、その時メスを蘇生しようとは思わなかった。もう十分苦しい思いをしていた筈で、それを長引かせたいとは微塵も思わなかった。治療で苦しみを長引かせているのではないかと悩んだ時もあった。ある時の治療中、獣医に治療を続けるのが果たして良いのだろうか悩むのだと言った。もしその時安楽死を勧められたら、私は受け入れたかもしれない。でも獣医は「そうだねぇ」と呟いたまま治療を続けた。帰宅後猫を横たえながら、それでもこの子は生きようとしているのだとふと思えて、この子が自らやめるまでは私が止めてはならないのだと思い直した。とはいえ、ただ苦しさが続くだけではないかという気持ちは拭えず、毎日考えては思い直しを繰り返していたのだった。


だから、悲しいのだけれど、この子が苦しい思いから解放されたというそれだけは嬉しくて、「もう苦しくないよ」と何度も何度も言葉をかけた。仕事は半休をとり、オスの時と同じ霊園でお世話になって、お骨を連れて帰った。オスのお骨と並べて沢山飾り立てて、それから泣いた。その後もその部屋に入るたび、骨壺を収めている箱を撫でた。
それから暫くは、時々気配を感じていた。あ、あそこに居ると感じることが多かった。けれど不思議なもので49日の頃を境にそれはなくなり、時々懐かしく思い出せるようになった。


なので、もう冷静に書けるかしらと思ったのだけれど、これを書きながらボロボロと涙がこぼれました。一体何に悲しみを感じているのかが分からないのですけれどね。

第12回定期演奏会

先日、所属するフルートアンサンブルのグループの定期演奏会でした。ピッコロからコントラバスフルートinFまでの、フルートにとっては幅広い音域となるグループです。バスフルートinFから下の音域のフルートは、一般的に知られるフルートとは異なる形をしていることもあり、まず見た目で驚く方もいる楽しいものです。


第1回の演奏会は指導を頂いている先生方に流されるように開催した演奏会で、正直12回も続くとは思いませんでしたが、今や既に次回の構想を開始しようとしています。賛助にいらっしゃる先生方が必ずおっしゃるのが「メンバーの仲が良い」という一言。メンバーの仲は本当に良くて、グループ運営の面で非常に助かっています。


そんなグループの演奏会。今回はゲストに、毎回来て頂いているフルートの巨匠である植村泰一先生に加えて、ギターデュオいちむじんの宇高靖人さんをお迎えしました。宇高さんのギターでロドリーゴの「アランフェス協奏曲」全曲を演奏し、非常に貴重な経験となりました。心に沁み入り、揺さぶってくるギターに、多くの方から感想を頂きました。涙を流したという方も。


私達の演奏を楽しみにしてくださっている方のいらっしゃることが、大変励みになります。次の演奏会ではまた一歩前へ進み、新しい景色を見せることができるように頑張ります。

あれから

このダイアリーを少し遡って眺めていたら、2013年の春の演奏会でカルメンの間奏曲のソロを担当したという記事があり懐かしく読みました。


あれから2年経った今年の春の演奏会では、同じビゼーが作曲した「アルルの女」の「メヌエット」のソロを担当しました。相変わらず練習不足で、個人レッスンの時間の一部で指導を受け、あとは全員での合計3回の練習会で毎度1,2回吹く程度でしたので、本番でも決して余裕はなく、また、「あがる」余裕もなくて演奏に集中しました。とはいえ、演奏後の自己評価は低く、ああ、まだまだだなあと思いました。今現在できることはやった自覚もありましたけれど、まだまだ底を上げないとなあという気持ちが強くて。


先日録音が届いたので意を決して聴いてみたところ、自分で思っていたよりも良く演奏できているじゃないと、思わず自分を褒めてしまいました。もちろん、時間が経ったことによるフィルター効果ですが(苦笑)。繰り返し聴くにつれて、どんどんと粗ばかりが気になるようになったので聴くのをやめましたが。昨年から会場がホテルのとあるスペースに変わったこともあり、会場に随分と助けられたと思います。自分に圧倒的に欠けているものが明確に分かったので、来月に控えた定期演奏会へ向けて、これからフルートを吹く折には自分なりにあれこれと試してみるつもりです。


続けていけること、一緒にやっていく仲間がいること、支えてくれる方々がいること、本当に自分は恵まれていると思います。