ねこの日々 - ブログ版

趣味のフルートのことや愛猫のことを、たま〜に呟きます。

評価されにくい仕事

http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/renai/20050511sr11.htmhttp://ssd.dyndns.info/Diary/archives/2005/05/post_33.html経由)

この麻酔科医の先生が「疲れ果てた」という気持ちが、とてもよくわかる。


「安全を守る」ということは、大変に正しく評価されにくい仕事だと思う。
安全評価やその設計の仕事に携わる自分も、常々感じることである。


安全であるべきことは、安全でなければならない。
安全は空気のようなものだし、そうあるべきだと思う。


しかし、何もせずにタダで安全が手に入るわけではないのだ。
安全が確保できるように時間や知識や体力を費やす人々がいるのだ。

その分のコストも勿論かかってくる。そのコストを抑えつつも求められる適切な安全を確保できるよう日々追求している。それらが、進歩に繋がる面のあることは承知だけれど、進歩性の無い方向の追求も勿論あって頭が痛い。お金をかけて、何も考えなくても絶対大丈夫という仕組みやつくりにすればこんなに苦労しないのに、と思うこともしばしばある。
でも、資金には限りがある。限りある資金が、安全確保だけに使えるはずもない。むしろ、安全確保は、アクセサリー的に脇にやられることもある。安全を確保するために、そこへ思いの至らない方々とけんかをすることもある。コストのかかる理由は別の所にあるのに「安全確保のため」と、まるでそれが悪いかのように言われて、怒りのぶつけどころが無く悲しい気持ちになることもある。安全でなければ、目的としている事柄は何もできなくなるのに、どうしてそんなに安全を軽視できるんだろうと不思議にも思う。


そうやって、いろんな思いをしながら作り上げたものが、無事に安全を確保できていても、その結果を誰も誉めてはくれない。当たり前のことだから。安全を確保できていることを誰も認識せずに、目的としていることや華やかな事柄へと目が向いていく。
でも、ほんのわずかでも安全にほころびが見えたら、一気に槍玉に上がるのだ。
きっと、ある程度のトラブルが始めから予想されている目的の事柄に対してだったら問題にならないであろう程度のことでも。目的とするものが最新を追うならば、それを取り巻く安全にも新知見を加えていくことになるのに。


私は今やっているこの分野の仕事が好きだけれど、それでも割に合わないなと疲れた気分になることは、やっぱりあるのだ。