はらわたが煮え繰り返る
少年は、今年5月から同少年院に在院しており、調べに対して「人を殺したことがなかったので、機会を狙っていた」と話しているという。
他人で試す前に自分で試してみろ。
命をめぐるあれこれ
少し気を取り直して書いてみる。
親戚一同も近所の方も大変に壮健で、その年まで知人のお葬式に参列したことがなかったとしても、ごく普通にペットを飼ってみたりとか、あるいは捕まえてきた虫を育ててみるとかすれば、それらが死んだ時に少しくらいは悲しみを感じ、生命の無くなったものは生き返らないことを知る機会があるように思うのだけれど、そのような機会さえ少しも持つことがなかったのだろうかと、不思議でならない。
私が子供の頃、目の前に大量にいた蟻を何気なくつぶしていたら母に「あんたは酷い」と言われたけれど、その母は、育てている花木や野菜についた虫を取ってはつぶし、蝿も蛾も蚊も殺すのを見て、私のつぶした蟻との違いは何だろうと、ふと疑問が湧いた。*1
これまた子供の頃。私を除く家族は、魚釣りが好きで良く行っていた。私は「待ち」の時間が苦手だったこともあるが、海から引き上げられた「釣られている魚」を見るのが、なんとなく苦手だった。しかし私は、魚が好物なのだ。息絶えた魚を触るのは平気だったから、調理の手伝いは難なく出来た。
ある時、そんな私に母は「卑怯だ」と言った。言われた時、一体何が卑怯なんだろうと思った。
親がタコを釣ってきたある日。洗い桶の中で動いているタコのぬめりを、塩でこすって取るよう親は私に指示した。目の前で動いているタコが珍しくて、躊躇無く塩を握ってタコをこすり始めた。もがくタコを見て、痛いのかなあ?とふと思った。思ったけれど、そのままゴシゴシとこすり続けた。私に塩でこすられて表面が白く泡たったタコは、水ですすがれ、煮えたぎっているお湯につけられた。
タコは一瞬で足が丸まり、赤くなった。そして切り分けられ、皿に盛られた。
その時、母が私に言った「卑怯」の意味が、なんとなく分かった気がした。
だからといって、その後も釣りへ同行することは無かった。しかし調理時、扱う食材と対峙するようになった。あなたのお蔭で私は生きている。
私の都合で生死の分かれる生物がいるのだ。だから、せめて人間の生命は、自分の都合で左右したくないと思う。傲慢な考えかも知れないけれど。そして、相手を殺さなければ自分が死ぬという状況を体験したことが無いからなのかも知れないけれど。でも、そんな状況にしないようにすればいいじゃないかと考えてしまう。
だからこそ、人間の生命を個人の都合で左右した人間に対する怒りは大きくなる。そして、そのような人間の生命をどうしてくれようかと考えた時、私は自己矛盾の環に陥る。
*1:ちなみに、いま私が自分の意思で殺すことのできる虫は蚊だけで、例えば毛虫などを見つけてその場で踏み潰すことはできない。自分自身を守るために必死になって追ったその蚊にも、掌でつぶれているのを確認した瞬間に心の中で謝っている。