ねこの日々 - ブログ版

趣味のフルートのことや愛猫のことを、たま〜に呟きます。

視点

仕事で、これまではまわってこなかったような作文が割り当てられた。ああもう、何も知りませんできませんと、上司達に預けてしまえるような立場でもなくなってきたのだなあと実感。作業をやった私が担当しなければ他の誰ができるのだ、という環境に、いつのまにかなってしまっていた。当時一緒に仕事をし、重い仕事については当然のように引き受けてくれていた上司は、既に退職されてしまった。


私にとっては初めての作業ということでどぎまぎしていたら、かなりぎりぎりまで上司が待つようなスケジュールで指示してくださった。その気持ちをありがたく受け取りつつ、早速作業にとりかかった。ちなみにその作業は、かつて自分が作業を行ったものに関するとあるテーマについて、他の方からされるであろう質問を自分で考え、それに対する回答を作文するというものだ。自分のために作成するのではない。その書類を必要とするのは、全くの素人でもなければ専門家でもないという他の方々だ。


何が難しかったかというと、取り上げる問題の設定以上に、回答の作成における視点の置き方だった。まずは書いてみようとエディタに書き殴ってから読み返して愕然とした。ああ、なんて我がままな主張なのだろう。最終目標を必要とする立場については、全く考慮されていないように読める。


最終目標に到達するためにはいくつかの手段があるのだけれど、そこから手段Aを選んだ理由というのは、単に作業をする側の都合が良かったということが最も大きく、最終目標の完全性を重視した訳ではない(というか、どの手段を選んでも、その完全性に大きな差異は生じない)のだ*1。そこで、最終目標を得る作業においてこのような利便があるのでこの手段を選択した、というように書いた。そうしたら、とても我がままに感じたのだ。これはまずいのでは、最終目標を必要とする立場から見た書き方にしなければと、そこから四苦八苦することとなった。


問題の設定についても、最終目標を必要とする立場から疑問に感じることを想像するところから始まった。そのテーマについての作業中、その立場からの視点を外していたわけではなく、勿論考慮していたことではあるけれど、改めて考えてみると、自分達がかなり経験に頼って選択していたと感じることもあって、そのような問題に対して理論的な回答を作成することに、意外に骨が折れてしまった。


「ぼたんの掛け違え」という言葉があるけれど、本当に些細なことが発端なのだろうなと作文をしながら感じた。同じものを求めていて、求めているその結果を得られていても、視点の違いから発する言葉の乖離は大きく、それは人同士の心をも大きく引き離してしまう。


この仕事では文書としていたから、作成した文章を後から何度でも読み返して文字を追って考えることができたけれど、これが誰かと面と向かって会話している時だったらと考えると少々落ち着かない。私は、瞬時に相手の視点から見た言葉を選ぶことができるだろうか。言葉を選びすぎて会話のテンポを崩すのも、考えすぎた結果まと外れになってしまうのも間抜けだ。ああ、私は会話は苦手だなあ・・・とつくづく思ったのだった。


これは余談だが、作文後、取りまとめ役の先輩に投げて相談したら、設問が少々マニアックだと言われてしまった。その方が私の作成したものを適当にアレンジして書類に取り込むとのことで作業は終了したのだけれど、100%のものを提出できなかったという点では悔しさが残る。うーん、まだまだ、だなあ。

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*1:言い訳をするならば、都合よくあるいは手際よく作業を進められることで、その段階で生じる誤りを防止する手段ともなるのだが、それだってこちら側の都合だ。