ねこの日々 - ブログ版

趣味のフルートのことや愛猫のことを、たま〜に呟きます。

そのままを認めて欲しいのだ

 id:konashiさんの記事を追っています。同じようなことを考え、経過を辿るのだなと思いながら読んでいます。

 本日は「http://d.hatena.ne.jp/konashi/20070304/1173002863」に関して私の意見を書いてみます。と言っても、私もそうなのよという方向性となってしまうのですが。

 最後に書かれている

そもそも、正直に気持ちを伝えて理解して欲しいと思うことが、なぜ問題なんでしょうか。心を矯正されなければならないのでしょうか。子供はいらないと思う者が異端者として心の矯正を迫らせる社会ではなく、産みたくないという気持ちも普通に受け入れられるような社会になって欲しいのだけどな。

には心底同意です。理由は人さまざまながら、私は欲しくない、私には無理だと感じていることをどうして認めてもらえないのでしょうか。ウソを吐く必要がどこにあるのでしょう。自分の身体をイジル必要がどこにあるのでしょう。

 私も不妊症だったらと考えたことはありますが、不妊症だとしても、周囲はやいのやいの言うと思いますよ。実家の近所の同級生が、長い長い治療を経てやっと念願の子を授かったという実例を私の母は目の当たりにしましたから、少なくとも私には別な苦しみが続くだけだと思われます。しかしながら、何らかの理由を望む気持ちはゼロではありません。言い訳し易いということは非常にラクなことだからです。

 産んだら気持ちが変わるかも?と考えたことは実はあります。かつて(といっても結婚の話も無い頃)子供がいてもいいかなと思ったこともあります。しかし、それは現実からの逃避に近かったので、そのような気持ちでこの世に出てくる子供が可哀想だと考え直したこともあります*1。望んで産むべきだという気持ちは強く、望んで産むことがその後の育児において自分を支える礎になるとも思っています。だからこそ、望む気持ちの無い今授かってもその後の生活に対する自信も気力も持てません。これでも、随分と気持ちが穏やかになったのですが、以前は子供を自分の身体から出した瞬間に自分は死ぬだろうという予感が強かったことがあります。その瞬間に自分が死ぬことよりも、その後どうするのだ?という気持ちの方が強かったので、産んだからには責任を持ってという気持ちは強いのだと思いますが、その責任で自分を絞めてしまうのではないかという不安と恐怖は上手く表現できないほどにあります。

*1:同時に、子供を見るたびに、そのような気持ちで産んだことについて自分を責めるだろうとも思いました。子供に罪悪感を抱くだろうとも。それらがどのような影響を与えるのかは未知ですが。