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ねこの日々 - ブログ版

趣味のフルートのことや愛猫のことを、たま〜に呟きます。

聞けずにいる過去

父は広島の出身だ。幼少時に終戦を広島で迎えた、らしい。どうして伝聞で書いているかというと、本人に直接聞いたからではないからだ。

恥ずかしい話だが、私は中学に入るまでヒロシマで何があったのかを知らなかった。部活動の時に、親の出身がどこかという話になって地名を口にしたら、上級生が随分と興味を示したのでなんだろうと思っていたら、そのうちに何かの授業で知ったという状態だった。
もとより父は、自分のことを話さない。自分の家族とはうまくいっていないことは母から聞いていたから、なんとなく父の家族を話題にするのは、我が家のタブーっぽくなっていたのだ。仮に実際に話題にしても、空気が悪くなる前に、適当にはぐらかされてしまっただろうと思うが。

中高生の間に、修学旅行や家族旅行で、広島の平和祈念公園へ3度訪れている。居住地が関東であるという点からは、決して少ない回数ではないと思う。もちろん資料館も見てきている。しかし、それでも父は何もセンソウに関することを語らない。私はなんとなくその理由として、当時父が幼くて、幸いにも語るほどの経験をしていなかったからではないかと想像するようになった。実際、父の実家は爆心地からは離れたヒロシマにあった。

そんなことから、父にセンソウに関する何かを聞こうという気はなくなっていた。しかし、ヒロシマという文字は私の中ではそこそこ大きな部分を占めていると、自分の辿ってきた道から思うことがある。無意識の選択かもしれないし、そのような運命なのかも知れないとも思うこともあった。一度は聞いておいた方が良いのだろうかと思いつつも、それでも聞けずにいた。

しかし、不意に部分的に聞くことがあった。折りしも、私の結納での会食の席だった。会話の苦手な父が必死に相手方と話そうとしていることに感謝しつつ、私は別な人と話ていたのだが、その会話が途切れた瞬間に聞こえてきたのだった。恐らく、相手の年配の方から、当時は大変だったのではないかと話を振られたことに対する応答だったと思うが、自分が小さくて余り覚えていないが、(恐らく戦後何年か経って)広島市の方から来る赤さびた電車は今もよく覚えている、と言っていた。それを口にした父は、どこか苦しそうだった。相手が満足するようなことを話せないことに対する苦しみなのか、思い出したくないことなのか、あるいは同じヒロシマでも所謂ヒロシマでないことに起因する苦しみなのか、そんなことがない交ぜになっているような気はするのだけれど、やはりその理由は分からなかった。

そして、私は今も聞けずにいる。
両親の顔を見ることも少ない今、更に機会は減っているが、だからこそ父が自分から語るのを待ってみようと思っている。
そしてその時は訊いてみたい。毎年8月6日に何を思うのか、を。

この日と8月9日は、忘れてはならない日です。


http://www.mypress.jp/v2_writers/hotori347/story/?story_id=1758804#562204から。