ねこの日々 - ブログ版

趣味のフルートのことや愛猫のことを、たま〜に呟きます。

そしてメスもいなくなった

2011年に亡くなったオスの兄弟猫であるメスが亡くなって1年以上が過ぎた。長らく軽く咳をしていたのだけれど、あるときから呼吸が苦しそうになり病院へ。原因不明だけれど肺の機能が落ちていて、本来であればレントゲン写真では肺の辺りは真っ黒で写るはずのものが、かなり広い範囲で白っぽく写っていた。

その日から何種類かの抗生剤などを服薬。亡くなる一月前からは食べ物も水も徐々に口にしなくなってしまったので毎日点滴に通った。好きそうなものや口にしてくれそうなものを探して、マグロを与えてみたり、鰹節でとっただしを鼻先に出してみたりと、あれこれ試していた。においをかいだり、舐めてみたり、少し食べてみたりすることもあったけれど、必要量からみればゼロに等しい量だった。


最後の2週間ほどは基本的には寝たきりで、それでもフラフラしながらトイレに行こうとするので、すぐそばにトイレを置いた。寒くないように座布団の上に横たえてフリースをかけて、そんな状態の猫を置いて出勤する毎日は辛かった。当時抱えていた案件は種々の事情から毎晩の帰宅時間が遅くなってしまうものだったので、点滴のために毎日通院が必要になった時はメンバーに事情を話して病院に間に合うように職場を抜け出し、帰宅して猫を連れて病院へ行き、点滴を終えたらその逆路を辿る日々だった。動物病院の先生方にはたくさんの配慮を頂いた。


ぐったりして余り動かなくなって、声をかけてもうつろに目が反応しているように見えるのがせいぜいではあったが、私や夫が近くにいると安心しているように見えたので、自宅にいる時はできる限り気配を感じさせるようにした。毎晩リビングで川の字になって寝た。


2014年9月26日に日付が変わった頃から1時間置きに声を上げ、また静かに眠るを繰り返した。そして午前4時36分に声を上げた後、すっと呼吸が止まった。嘘のようだった。受け入れ難く、しかしどこかホッとして、泣き笑いした。もし私が蘇生技術を持っていたとしても、その時メスを蘇生しようとは思わなかった。もう十分苦しい思いをしていた筈で、それを長引かせたいとは微塵も思わなかった。治療で苦しみを長引かせているのではないかと悩んだ時もあった。ある時の治療中、獣医に治療を続けるのが果たして良いのだろうか悩むのだと言った。もしその時安楽死を勧められたら、私は受け入れたかもしれない。でも獣医は「そうだねぇ」と呟いたまま治療を続けた。帰宅後猫を横たえながら、それでもこの子は生きようとしているのだとふと思えて、この子が自らやめるまでは私が止めてはならないのだと思い直した。とはいえ、ただ苦しさが続くだけではないかという気持ちは拭えず、毎日考えては思い直しを繰り返していたのだった。


だから、悲しいのだけれど、この子が苦しい思いから解放されたというそれだけは嬉しくて、「もう苦しくないよ」と何度も何度も言葉をかけた。仕事は半休をとり、オスの時と同じ霊園でお世話になって、お骨を連れて帰った。オスのお骨と並べて沢山飾り立てて、それから泣いた。その後もその部屋に入るたび、骨壺を収めている箱を撫でた。
それから暫くは、時々気配を感じていた。あ、あそこに居ると感じることが多かった。けれど不思議なもので49日の頃を境にそれはなくなり、時々懐かしく思い出せるようになった。


なので、もう冷静に書けるかしらと思ったのだけれど、これを書きながらボロボロと涙がこぼれました。一体何に悲しみを感じているのかが分からないのですけれどね。