ねこの日々 - ブログ版

趣味のフルートのことや愛猫のことを、たま〜に呟きます。

少子化対策についてあれこれと私見

 続けて少子化に関することを取り上げてきたけれど、実は私自身は、少子化を問題とは感じていないのです。どんなに出生率が下がってきたとしても、その予測に沿ってある時人口が3人になってしまった!という事態は、ものすごく考えにくいと思いませんか。ある程度のラインで落ち着くと思うのですよ。自然に落ち着いたラインが、おそらく住みやすい(生きやすい)地点なのではないかと思うのです。それに、今人口が減っているとはいっても、これまでの歴史の流れで言えばもっと少なかった時代もあるわけで、取り乱す状況ではないですし。産めよ増やせよって今も生きている言葉なのでしょうか。それに続くように一人っ子政策が始まったりして。

 政府は少子化について対策をとろうとしていますが、これはこれまでも書いている通り、何かずれているのではないかと思うのですね。視点が「人の育成」ではなくて、年金確保の「駒」が欲しいという辺りにあるのが原因のように思いますが。ただ一方で、国のできることは法整備などであって、例えば現場の雰囲気作りなどは、そこに居る人達で作り上げるものだから、実際に国ができることに限界のあるのも事実でしょう。

 ただそんなこととは無関係で、子を産み育てたいという人が暮らしづらい世の中というのは単純にギスギスしているように思うのです。そして、子が将来を担うこと、私達もいつかはその子達の努力の恩恵をこうむるであろうことも事実として認識すべきことだと思うのです。だから、個人が子を育てるのではなくて、皆で育てるという意識と環境が必要なのではと思うのです。ただ単純に産んで子供という頭数が増えれば良いというものでもない。子の居ることがその親の免罪符になるということとは違います。子の居る者いない者、周囲へ気を配りましょうということが前提です。例えば子が突然騒ぎ出したからといって、いきなりそのこと周りが責めるのはどうかと思うし、一方で、騒いでいる子になんら手を打とうとしない親もどうかと思うし。家の外という公の場に出る以上、守るべきマナーもありますし。かつては「常識」という言葉でそれなりに的確に言い表されていたように思うのですが、今は「私の常識はあなたの非常識」なんてことになっていますしね。思い遣るという言葉が霞んでいるようにも思うのですよ。

 で、まあ、制度的なことも日常社会の環境からも、余り積極的に子を欲しいとは思えなくなっているのですね。そもそも自分は子を育てられるような器量がないだろうとも思っているのですが。

 なんてことを考えています。どうやら私は政府が子を産むことを期待している世代に引っかかっているらしいのですが、こんな風に考えているのはイケナイですかねえ。